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1月, 2021の投稿を表示しています

アルカトラズからの脱出

 「アルカトラズからの脱出」を観た。1979年ドン・シーゲル監督、クリント・イーストウッド主演。 題名の通り、アルカトラズ刑務所から脱出する実話である。アルカトラズ刑務所は凶悪犯を収容している刑務所であり、サンフランシスコ湾に浮かぶアルカトラズ島全体を刑務所にした造りになっていて、監獄を抜け出しても周りが海に囲まれているので逃げられない。この話のあと一年後に、刑務所は閉鎖されている。現在は観光名所となっている。 「ザ・ロック」という映画では、テロリストがアルカトラズ島の観光客たちを監獄に閉じ込め人質にする。唯一脱獄したことのある男ショーン・コネリーがこの島に忍び込む任務を受ける。 独房の通気孔の周りのコンクリートをスプーンでちょっとずつ削っていく。通気孔の絵を描き、穴の部分にはめ込みカモフラージュしたり、自ら作った精巧な人間の頭部の模型をベッドに置き、看守たちには問題なく寝ているように見せているなど、脱出経路を掘ること以外にも用意周到に行っていき最終的に島を抜け出すことに成功する。 この後、脱出した3人は見つかっておらず、どうなったかは本当のところ分かっていない。公式にはサンフランシスコ湾で溺死したことになり捜索は完了している。 クリント・イーストウッド演じるフランク・モリスはIQ130あった天才らしく、このような周到な計画を立案できたのだろう。物語の後半くらいからは脱出がうまくいくことは知っているので、どんな危機が及んだとしていてもニアミスで済むということが分かるので、あまりドキドキしない。これは実話の欠点でもあると思える。とはいえ、当初の計画の4人目は脱出に失敗しており、なかなかかわいそうである。

かぼちゃのつる

「 かぼちゃのつる」という話を聞いた。小学校一年生の道徳の教材らしい。色々批判があるようだ。他の批判の意見はあまり知らない。話の大筋は以下の通りだ。 かぼちゃがつるを伸ばしていると、ミツバチやらちょうちょが咎める。畑の枠を外れて勝手に伸びると迷惑だよと。そんなこと聞かずにいると、つるは道路に到達してしまい、車に轢かれる。最後はみんなの言うことを聞いていればよかった。 ねらいとしては自分のわがままが周りに迷惑をかけることに気づこうと、他人の注意には耳を傾けようくらいか。 つるを伸ばすことはわがままなのか。みんな言葉が通じるのに、車だけは言葉が通じていない。車の罪を問わずに危ないところに入っていったかぼちゃが悪い。本当の危険を教えず、迷惑をかけるからだめという言い方からの「だから危ないって言ったじゃん」へのスライド的批判。 なんか色々考えてしまった。

マディソン郡の橋

 「マディソン郡の橋」を観た。クリント・イーストウッドが監督主演、メリル・ストリープ共演の1995年の映画。 ある兄妹が母親を亡くし、その遺言を読む。遺言には当時のアメリカではありえない、火葬にして灰をまいてくれという。二人は驚き混乱するが、その遺言を読み進めていくうちに母の知られざる過去のロマンスがわかってくる。 過去。メリル・ストリープ演じるフランチェスカは夫と息子、娘の4人家族の妻で、とくに不自由ない日々を送っている。ある日、3人が近くの街へ4日間ほど出かける。独りでゆっくり過ごしているところにクリント・イーストウッド演じるカメラマンのロバートが訪れる。ロバートは屋根のついている橋を撮影したいと言う。フランチェスカはロバートを橋まで案内するうちに、心がざわつき食事に誘う。 今の生活に大きな不満はないが、かつて自分が選ばなかった選択への憧れと、叶うかもしれない恋。しかしこの恋の先行き分からない。むしろ分からないからこそ、この恋に意味があったのかもしれない。 最後にメリル・ストリープはどちらを選ぶか決断を下す。最初にフランチェスカはいい母親として亡くなっているため、観客は彼女が家族を選ぶことは分かってはいる。 かんたんに言ってしまうと家族の留守に不倫しちゃう話ではある。だけど、この物語はフランチェスカの心情に寄り添った作りになっているから話をたどっていくにつれ彼女に同情の念がわき責められない。家族を捨てず恋に生きないという選択は、彼女の自由を捨てることではあるものの、とてもきれいな捨て方であった。

カラマーゾフの兄弟(チャレンジ中)

ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」を読んでいる。 以前に二度ほど読破に失敗しているので、第三次カラマーゾフチャレンジと名付けることにした。 光文社の古典の新訳だから。 現在、4日目で第2巻(全5巻)を読み終えようとしている。 Eテレの100分de名著も観ているから、今回は読めると思う。 現在、イワンの創作した「大審問官」の物語が終わり、ゾシマ長老の一代記の途中まで進んでいる。 今のところ登場人物のすべてに共感できない。アリョーシャにさえも。 とはいえ、この物語に惹き込まれている。

2021年

一年の計は元旦にあるらしい。元旦は元日の朝だから、元日の朝を毎年寝て過ごしている僕としては関係のない言葉である。しかし今年は珍しく朝に起きた。 いつもは実家に帰省し、年が明けてすぐに友人たちと近くの神社に初詣をしている。今年は帰省もしないから、参る神社もなかった。京都のホテルの一室で起きて、スマホを眺めて、隣の部屋の友人と今日の計画を練るくらいのことをしていたわけだから、元旦に起きても特に有意義なことはしていない。 ここのところ思うのは、年末年始というのは有意義じゃなくても許される気がする。この年末年始にかけては特にそう思った。寝て起きてうまいものを食べる。騒がない。人混みを避ける。書いていていつもと一緒だなと気づいた。いつも変わらず意義のない生活を続けているから、もしかしたらこういう世界の方が僕にはあっているのかもしれない。 そうは言っても、やっぱり一年の計を立てたいという気持ちもある。あれこれ考えて今年の目標を考えた。 やりたいことをやりたい。 目標だかなんだか分からんがこの程度がちょうどいい気がする。

2020年終わり

2020年ももう終わる。最低の年だった。 とは言え、来年になるとマシな年になるかどうかは分からない。もっと酷くなる余地は残っている。 ウイルスは年とか関係ない、関係あるとしたら季節くらいだろう。 年末から旅に出ている。実家に帰省できなかったので友人と東京を離れた。 その道中の街でコメダ珈琲に入った。コーヒーを飲んでいると、店員の一人がバックヤードの方で食器を落としたらしく、何かが割れる派手な音がした。昨今のコンプライアンスなのか接客対応のマニュアル的には『何か落とした際には客に「失礼しました」と伝える』と書いてあるはずだ。大学のころカフェでバイトしてたときにも、そのようなことを教えられたか、周りの店員がそうやってたからか、僕もそうやっていた記憶がある。 当該のコメダ珈琲でもそう教えられているとは思うが、その時はそうではなかった。ガチャンという音が聞こえた後、聞こえてきたのは「大丈夫?怪我はない?」という他の店員の心配の声かけだった。 まあ客への心配も大事だけど、やっぱりそういう対応の方が人間的だし暖かい。なんとなく、こういう対応は東京にはないなと思った。 出典を忘れたが、客にサービスを提供した場合、通常ならば客は満足する。さらに良いサービスが提供できた場合、客は感動する、そうである。眉唾的というか、唾は眉につけるんじゃなくて唾はことの教えに吐いて棄てるべき教えだと思う。 しかしまあコメダ珈琲な店員たちの通常の人間の営みが聞こえると感動してしまった。